「二週間、日本に行くから。」
足音ともに流暢な英語が聞こえた。
思わず聞き返したくなったのは、言語的問題ではなく発言の内容の方だ。
昔から可笑しな娘である事は父である私も重々承知していたが、ここまで発展してたとは。
「もうチケットもホテルも予約済みで、お金も払ったから。」
そういう心配をしてるんじゃない、将来性を心配しているだと玄関から聞こえたフランス語に頭を悩ます。
金の出所はきっと経済専攻の友人に習ったという株の投資だろう。
お小遣い制はとうの昔に途絶えきっている。
「日本には再来年に皆で行くから待ちなさい。」
「お父様、聞いていらっしゃいましたか?あたしはもうチケットを予約したのですよ。」
今度はクイーンズイグリッシュで返された。
日本に行くなら日本語で話せと友人なら言っていたところだろうが、
この妙な言葉のキャッチボールは今にはじまったことではないので、もう放置するしかない。
この前なんて怒りながら中国語と古代ギリシア語で話してたときは、まったく理解できなかった。
「事後報告なのは分かったけど、理由を教えてくれ。なんで再来年じゃ駄目なのかも含めて。」
「だって止めるでしょ?絶対に。」
ドイツ語でその後も一文何か喋られたが日常会話しか分からない私には伝わらなかった。
「当たり前だろ。二週間って家出か?誰かと一緒に行くんだろ?」
「行かないわ。一人で行くのよ。大体、あたしが家出すると思うの?
お父様が居るのに家をでる必要が何処にあるの!?進化論より分かりやすく教えて頂戴!」
偉そうな日本語での返事。教えてほしいのはこちらなのに、と心の中で嘆く。
「リン、あのね。」
呼びかけてみたものの呆れの方が上回り言葉にならないため息がつづく。
リン、それが彼女が自称する名であり公共の名ではない。
自称、伊予本 鈴(イヨモト
リン)本名は言えないことにされている。
よほどの事じゃないと呼ばれない、私と妻が名づけた名はここ半年はめっきり姿を表さない。
・・・のは、いい。もちろん良好の意味の”いい”ではない、仕方ないという意味合いである。
百歩どころが千歩譲って目を瞑ろう。問題は自称の名だ。
伊予本
鈴、それは私を表す固有名詞として現在進行形で使われている名なのだ。
今時襲名は流行らないのは、もちろんだが私は自分の名を娘にやった記憶は微塵も無い。
訴える事もできるのかもしれないが、法廷に立って家族の絆を崩壊させる気はさすがにない。
しかし、自称の名を呼ばせ為、学校の先生に自分の研究を売りつけるというのはいただけなかった。
ただでさえ名門校だったのに、リンのせいでまた入学倍率が跳ね上がりハードルが上がったとか。
私も妻も基本方針が放任主義なため、特に咎めはしなかった。が、私は内心複雑な感情に駆られた。
彼女の武勇伝はこれだけに止まらず、学校に異常現象研究会を立ち上げたり地下を乗っ取ったり・・・
幼い頃に遡れば家中の物という物を、(電気が通るのか水に浮くのかなど)実験を嬉しそうにする子だった。
私から見れば”かぜはどうしてふくの?”などという質問は可愛い方だ。
娘の場合”かぜにのったきんやぶっしつはどのくらいかくさんするの?”などという可愛げない質問だった。
しかし最初に生まれた愛娘の質問な上、私も未熟だが科学者と名乗る身である。
答えないわけにもいかず、時に書籍で調べたりしながら段々難易度の上がる質問に答えていった。
しかし、それが原因であるとは一丸に言えない。その程度だったのなら息子にも同様に教えていた。
・・・まぁ、彼は私の回答より玩具の方に夢中になり私の話など右から左に忘れていたようであったが。
ちょっとした回想を終える頃にはリンの返答が帰ってきていた。
「さっきから、文句ばっかり!」
だから私はドイツ語が理解できないのに、と多少の苛立ちで目線を上げる。
特に描写する必要性が無いので黙っていたが私は現在リビングで英文の新聞に目を通していた。
玄関先からリビングはそう遠くないがリンは私の幼い頃の言いつけ(あるべきものをあるべき場所に)
を守り時計や鍵を私と会話をしつつ、しまっていたのだろと推測される。
そして今、その作業を終了してこちらに姿を現した娘に言葉を失う。
うねりながら腰まであったブルネットの髪は、軽いストレートで首上あたりの黒髪に。
青灰色の瞳は(おそらくアイコンタクトで)黒色に眼鏡。
ジーンズが8割を占めてた服装も今は残り二割のスカートとなっている。
容姿で変わってない点はスクールバックと彼女のトレードマークともいえるタレ目ぐらいだ
確実に道ですれ違った気がつかないレベルだ。変装の域にある、なにかやったのだろうか。
「どうした、その格好!説明しなさい!」
「あら、気に入らないの?クラスメイトは誉めてくれたわよ。とても可愛いってね。」
くるりっと軽く一回転をするイタリア語で喋るリン。
遅れてスカートの襞と短めの髪が彼女の動きに追いつく。
「・・・我が家は放任主義第一だけど、今回はそうはいかない。とことん話し合うからな。」
「まぁ、とても嬉しいわ!理由は日本にあるんでしょ?そうよ、お父様!
あなたの推測の通り、あたしはお父様の過去を調べる為に行くんです!聞けばあたしと年の近いお父様の・・・」
わざとらしく目を泳がせ言葉を紡がないリン。
何語でもいいから言い切ってくれたほうが楽だった。
続く言葉は”ご友人の子供が居るらしい”などだろう。
「・・・まさか、会うつもりじゃないだろうな?」
「頭のいいパパはリンの気持ちを分かってるでしょ?」
幼児英語と上目遣いでいわれても無効だ。
まぁ、騙される男が居ないとも断言できないが。
「まったく理解できないが、父として理解しなきゃならない状況にある。」
「大丈夫、迷惑かけないわ。ウエシさんとアキムラさんに。・・・むむ、日本語難しいわね。」
ちなみにとことん話し合うから全て英語である。
ここまで言語が堪能そうに見えるリンだが、実は完璧に喋れる言語は限られている。
現在のところ英語とフランス語、そして日本語。
プラスアルファに喋ってるドイツ語やイタリア語、中国語などはあくまで日常会話レベル。
とは言っても、私のような買い物が出来るといったレベルではなく、
その上の買い物をした上でクレームをつけるぐらいやってのけるレベルだ。少し無駄な気もする。
「・・・安芸村に、羽衣石、か。」
僕だって最後に会ったのは結構前なのに、と思わず日本語で呟き感傷にひたる。
懐かしい名だ、子供が生まれた事は手紙や電話で聞いていたけどあったことはない。
再来年に行く、とは行ったものの実現するかどうかなんて分からなかった。
現に私はこちらに来てから一度も帰国したことがない。・・・弟にもあってない。
独立したところまではどうにか見届けたのだが、それ以上は過保護になると確信し手をひいた。
「で、会っていいの?駄目なの?どんな人なの?」
「駄目だ。そもそも何処で知ったんだ。」
アルバム類は書斎ではなくわざわざ自室の机に閉まっていたというのに。
話しながら一つの結論にたどり着いたが、それではないことを切に祈り返答を待つ。
「雪上さん、喜界島
心さんよ。」
結論一致。・・・まったく何しているのだ、あの人は
思い返せば彼を避けるためにイギリスに来たというのに居場所を突き止められるし。
こうやってリンに私の過去やギニョールの話を話し、彼女の性格を歪ませた5割はあの人だ。
私の人生を邪魔することを生きがいとしているのではないかとたまに論じたくなる。
「ふふ、このファッションも心さんに教わったのよ。どう?」
・・・本当に何をしているんだ、あの人は。
老けてく様子をまったく見せない年齢不詳の考え不透明行動不明人間に改めて呆れる。
「どうもこうも、今すぐ染め直して欲しい気持ちでいっぱいだ。」
「なら日本に帰ったらすぐに元の色に戻すわ。」
「”今すぐ”って言ってるんだ。・・・アビー!おいで」
アビーとは私の息子の名でリンの弟にあたる。
私はこれ以上の説得は無意味と思いアビーを呼ぶことにした。
とはいっても、私が説得しても無理なのにアビーが加勢したからといって状況が変わるとも思わないが
居ないよりいたほうがいいだろう。久方ぶりの家族会議となりそうだ。
「ダディ、なにー?マイケルの家が吹っ飛んだの?」
コメディの見すぎだ、などとつっこむより前に現象的に突っ込まれた。
アビーは走りながらこちらに来て(これまた描写する必要性がなく省いてたが)ソファに座った私に
思いっきり突っ込み、結果的にソファの上で私と抱擁するという妙な形となった。
「アビー!今すぐどきなさい!皮膚の皮をむいてあげるわ!さぁどきなさい!」
怒り狂った韓国語が聞こえる。
日常会話として皮膚の皮をむくなど何処の例文を読んだのやら。
アビーは私と向き合っていた体を反転させ、姉の方を見る。
現在、人口椅子と貸した私の視界にはメガネのふちとアビーのブロンドの髪、そしてかろうじてリンが見える。
「うわぁ!なにその髪型!リンはいつから女優さんになったの?シノビ役でもやる気なの?」
「茶化さないで。さっさと、お父様から離れなさいって言ってるの!」
「・・・アビー、聞いてよ。リンは私たちに黙って日本に行くって言うんだ。」
リンの意向を完全無視して私はアビーの髪を撫でながら説明する。
「なんだって!?リンはその格好で悪の亡霊と戦うんだね!それにしても相談してくれても良かったのに。
ボクだって化粧道具の一つでも貸してあげたのに!・・・トマトケチャップだけどね。」
リンや私と違ってユーモアに満ち溢れてるアビー。イギリス人というよりはラテン系か自由なアメリカ人のノリだ。
まぁ姉とは違いドラマかスポーツ番組ばかり見ているせいもあるのだが。
彼と同じ年の、日本の中学生が見たらそのジェスチャーの大きさに驚きそうだ。
「・・・アビー、聞いてよ。リンは私の友人の子供に会いに行くって言うんだ。」
「おぉ!またダディはセクハラを受けているんだね。これはスペシャルガードが必要だね。
部屋中をサッカーゴールで埋めたらどうだい?ちょうど遊べて楽しいじゃないか。」
「・・・アビー、そしたら私はどうやって部屋に入るんだ?」
「あぁ、ダディ。うっかりしてたよ、ボクとしたことが!」
そういって思いっきり首を振りわざとらしく頭を抱える。
なんとなくアビーの純粋なギャグを聞いていたら気も晴れた。呼んで良かった。
「リン、そういうことだからサッカーボールには気をつけて日本に行くんだよ。」
「・・・アビー、止めてほしいんだよ。待て、ゴールキーパー的な意味じゃない。」
「アビー、あたしとも言葉のキャッチボールをしなさい!お父様から降りなさいって言ってるでしょ!」
駄目だ、皆言葉を投げるだけ投げている。リンのセリフでようやく降りたアビーは私の横に着席。
というか、リンが日本に行く方に加勢するなんて予想外だ。
「・・・アビー、リンが2週間居なくていいのか?待て、真面目に答えろよ。」
「真面目に?・・・だって、、リンが行きたいっていうならいいんじゃない?」
「本当にか?リンが居ない間の庭の手入れや部屋の掃除をする羽目になっても?」
「えっ!」
「アビー、騙されないで!これは誘導尋問よ!冷静になって見なさい貴方が生きていけるのは誰のおかげ!?」
・・・リン、お前はアビーの何なのだ。
姉以上の地位を私の知らないところで築きあげている気がする。
その後数々の論争の末、私は仕方なくリンの帰国を許可した。
理由の一つにチケットとホテルの予約までしたスケジュールをリンが取り消すはずが無いこと。
二つ目に、自らの身を守る術を知ってるし、リンの性格上トラブルは何らかの形で解決するという見込み。
三つ目に、もっと色んな人と話して欲しいという私の父親としての願い。
・・・そんな私の思いをのせて私の娘はある学校の終了式近くの日、我が家を出た。
棚引いた飛行機雲が煙の様に空に消えるのを、私たちはそっと見送った。